遊ぶ庭で面白い未来を目指すプロジェクト【ニワカケル】

庭師が語る④ 適当こそ重要

どうも適当な男です。
自分は、きっちりすることが出来ない。感覚とノリでしか仕事が出来ない。お役所仕事みたいな仕事って生理的に無理。束縛感に耐えられない。
だから植木屋やってます。
造園業って自然相手なんで、設計通り作るのは無理です。設計には「ゆるさ」が必要で、その曖昧さが心地いいわけです。美的価値もその場の即興で作る感じが最高にいい。
その感覚を言葉にすると「適当」だったりします。
現代において適当に仕事しますとかいうとメチャクチャ怒られます。

なので今回は、適当について改めて考えてみたいと思います。
結論書いてしまうと、「適当」とは「ちょうどいい」であり、楽に楽しく生きる為に必要な成分なのに足りてない。真面目に支配されるとツラいですよね。だから、庭で適当成分を補給するといい事があるかも。適当に書いたんで適当に読んでください。

真面目過ぎる世界ってツラくなってきた

現代って、なにかとしっかりすることを強要してきます。
しっかりすることの重要性、わかります。
わかるけどなんでもかんでもしっかりする事ばかりってツラくないですか。しっかりしなけりゃならない病が蔓延してて、なんかギスギスしてません?自分はちょっと無理です。
快適に暮らせるかもしれないけどちょっと、ギスギスするし過剰サービスや過剰品質に高いコストを払い続けるのは、ちょっとなぁって思ってます。

日本って極端から極端に走る国です。真面目な気質が原因にあります。幽遊白書で幽助が選ばれたのは、不真面目だから極端な行動をしないはずって理由です。仙水や戸愚呂だけだと駄目なんです。真面目でいい事もありますが、不真面目がいい事もあります。重要なのは、バランスです。

今は、ちょっとでも問題があると炎上します。
個人であっても特定しネット上でリンチするみたいな事も度々みかけます。酷い世界です。○○ハラスメントとかも加速しすぎている気がします。昭和は、自由過ぎましたが、令和は逆方向で行き過ぎてきた感覚があります。

善悪って、曖昧な価値基準です。
絶対的な正義があってそれを基にして作られているわけじゃない。
時代の雰囲気に左右される程度の軽い、ものすごく軽いものです。
でも、善というと絶対的正義があるような雰囲気を醸し出します。
逆らうと処刑されます。
ハラスメントとか典型です。
ドラマで「不適切にもほどがある」ってのがありましたが、時代によって善悪は変わるものです。

更に突っ込むと、不倫騒動とかありますが、善悪ですらなく気分や感情でしかない。
不倫したタレントで許される人と許されない人がいますが、これって気分だからです。気分的に許せないとか、感情的に裏切られたって話です。気分の話なのに、不倫をする奴は悪人だと善悪で語ったりしています。

暴走する善悪基準に、気分さんも乗っかって、もうこれ止まりません。
真面目と不真面目のバランスが崩れています。

不真面目にも役割があります。
不倫問題を例にすると、不真面目要素を入れると、不倫がそもそも問題ではない状態になります。島田紳助の不倫論みたいな感じの世界です。悪いけどしゃあないやん。人ってそんなもんやろ。建前も大事やけど本音も大切にしていこうやってノリです。このノリの重要なポイントは、「寛容」があるって事です。

真面目君が多様性とか言い出すと、「分断」を起こします。
不真面目君は、そもそも正義にこだわらないので「寛容」です。
重要なのは、バランスです。
高田純次の成分が足りてない。

適当の価値

適当って言葉は適当なので、広い意味があると思います。
一つは、駄目な意味での適当です。手抜き仕事って感じの適当です。これはちょっと駄目です。
もう一つは、いい感じにやっといてって感じです。信頼関係ですよね。プロとプロの仕事です。
最後の一つは、本当に適当な感じです。自炊の味付けとか適当です。自炊に正解なんてない。善悪も無いし、何だっていいんです。だから適当でいいんです。よく考えたら、人生って適当でも良くない?

辞書によると、適当の意味は、「ちょうどいい」です。ちょうどいい感じってバランス感覚が重要です。バランスが無くなって手抜き仕事の代名詞みたいになってますが、本来は、ちょうどいい感じって意味です。同じような言葉だと、「いい加減にしろ」みたいな説教がありますが、いい加減って良い加減です。過不足なくちょうどいい感じの状態を指す言葉なのに、手抜き仕事の代名詞になってます。

この現象からうかぶ仮説は、人間ってバランスを保つ機能が備わってない生き物なんでしょう。
現代だと、受験競争とかもバランスを欠いているように見えます。受験なんてエリートだけでいいと思ったりします。日本をけん引していただける方だけが参加できる神聖な行為でいいと思います。
それ以外の人は、自分の人生を充実させる為に何が重要なのかを見極めることの方が大切ではないかと思います。「ちょうどいい」を見極める作業です。自分が何者なのかもわからないまま、受験戦争に参戦するとかツラいです。勝ち負けのある世界とか、参加しなくてもいいんです。

現代日本なら、適当に生きててもどうにかなります。
人生には、幼児教育していい大学行って大企業に就職するって成功者テンプレがあります。テンプレから脱落すると、負け犬感があります。
うーーーん、人生に勝ち負けありますか?
正解とかありますか?
成功失敗とかありますか?
あなたの人生は、負けてますか?間違ってますか?
自分は、そんな質問自体が間違っていると思っています。

人生なんて、適当でいいんです。
ちょうどいいを追い求めるだけでいいんです。
自分の人生は、自分で愛でる。
人生は、トラブルしか起きない。
それを愛でるだけでいいんです。

失敗も不正解も負けも存在しない世界が、適当な世界です。人生なんて適当でええやん。

庭には適当が必要

また、今回もオチに向け強引に庭に話をもっていきます。

庭は思い通りにならない。だから適当に向き合うのがちょうどいい。
自然って人間の領域外です。人間の理屈では動きません。自然は、人間に不都合な存在です。人間の歴史は、自然との闘いの歴史でもあります。人間には、まだ自然を制御する能力がありません。
ということで、人と自然の中間地点である庭は、人間の理屈が通用しない場所です。暑いし寒いし、風が吹けば色々吹き飛んでいくし、ゴミが飛んでくる。雨も降れば雪も降る。人間が無力を感じるための場所でもあります。でも、海とか山の生死を問われる無力感ではないです。程よい無力感がある場所です。それを心地いいと感じられるようになれば、軽く悟りを開けます。

そんな感じが庭なんですが、庭に向き合うのに必要な感覚は、「適当」です。
次々と理不尽なイベントが発生する場所です。そんな所だと、正解とか成功とか人間の雑念でしかないと気付くわけです。
トラブルを味わう。
トラブルって定義してるのって自分です。
問題が発生したのではなく、何かの出来事が発生しただけ。
その出来事を上手く調理するのが、適当な感覚です。

訪れる逆境を乗りこなせてしまう。そんなイケメンな中年オヤジになりたいわけです。正解とか成功とかを超越するんです。その場に合わせ、ちょうどいいみたいな雰囲気を醸せるオッサンがカッコいいと思うわけです。多少は動じないし、どうにもならないことは達観し他で楽しむ。自立した個と根拠がある感じです。自分はもうすぐ50才ですが、ケツが青い。まだまだ青い。
伸びしろがあるんです。
人生、まだまだ先があってよかった。

庭は、何事も計画通りに進めることは出来ません。その場その場を臨機応変に乗り超えることが大切です。だから、「適当」な感性が必要です。真面目を捨てて適当な感性を育てる場所なのかもしれません。

世界を救うために適当になろう!
もっと適当でいいんだよ。
適当さは、すべてを癒します。
そんな妄想を庭で語り合ったりしませんか?
待ってます!

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