どうも、庭についてそれっぽい事が最近ようやく語れるようになった中川です。
難しい事を書いてますが、ネットの情報を元に妄想を書いてるだけなので、話半分に受け止めて下さい。間違いだらけやないか!て感じのツッコミがあるはず。そのツッコミは、ぜひコメントでも対面でもいいので聞かせてください。修正します。
そんなこんなでいきなりなんですが、さほど理解も出来ていない千利休について語ってみようかと思います。
素人が何を語るねん!って感じですが、千利休なんて難しい人、理解できてたら怖くて語れません。
素人だから出来る無謀!
でも、それがいいんだよ!
馬鹿じゃないとできない事がある。
賢い人が作った世の中だから、賢い人が見落とす場所を獲る。馬鹿万歳。
美学を貫く利休
利休をざーっと簡単に説明すると、利休以前の世界は、カフェイン摂取用の嗜好品である茶、その茶を楽しむセレブ的なパリピ的な喫茶文化がありました。そんな派手な感じの茶の湯に、侘びとか寂びみたいな渋い感性持ち込んで、革命を成し遂げたイノベーターが利休です。
どんな革命かといいますと、セレブが、狭くて暗い粗末な建物で茶を飲んで最高とか言い出すわけです。意味不明!
例えるなら海外のセレブを、昭和のボロ団地で麦茶飲ませて接待する感じです。トランプ大統領がちゃぶ台で漬物食ってる感じです。無理です。絶対無理。その会談失敗です。あげくに、このちゃぶ台は戦前からの頑固爺が使い続けてきた一品で50億円の価値がありますとか言い出すわけです。地面師もビックリです。和室界隈的な壁には、バック・トゥ・ザ・フューチャーのポスター貼ってます。10億円とかで買わされる羽目になるわけです。
たぶん、色々な人に怒られそうなことばかり書いている気がするので、ここらへんで止めます。
自分が書きたい事は、そんな無茶を自分の美学だけで成立させてしまった利休先輩かっけーって事です。
利休先輩を超えるということは、さらに荒唐無稽な美学で上書きするって事です。
いま求められていること
利休といえば、ミニマリストの第一人者です。物も情報も溢れた現代の重要なテーマです。断捨離とかコンマリとか、現代にもその系譜は脈々と生き続けています。
そぎ落とし捨てるからこそ豊かになれるって、凄い発想だなぁーって思うわけなんですが、利休を超える方法を考えてみました。それは、利休が捨てきれていないモノを捨てる。究極は、捨てる事すら捨ててしまう。って感じで究極を究めることで師匠を超えるって王道的展開を妄想してみます。
利休は秀吉に切腹を命じられますが、自分の命を賭してでも大切にしたものがあるんでしょう。事実は不明なので色んな説がありますが、派手好きの秀吉との好みの違いは重要な要素の一つにあると思います。利休は、自分の美は捨てられないわけです。じゃぁ美を捨ててしまおう。
美すら捨て、捨てる行為すら捨ててしまえばどうなるのか!
そこには何も残りません。
何もないんです。
「無」です。
いきなり妄想が終わってしまいました。
ん???
ちょっと待ったぁぁぁぁ。
「無」があるじゃないか!
インド人が0を発明したように、「無」を発明すればいいんです。
でも「無」って何だろう。
「無」の価値
落合陽一が最近「ヌル」って言ってますが、いまいち理解できません。インド人の0の発明の価値も、いまいち理解できません。何度か挑戦してますが無理なので、誰か親切な人、丁寧に教えて下さい。
無って簡単そうで、かなり難しい概念なのかもしれない。
自分の所持金が0円とかは、理解できるんですが…。
とりあえず、わからなくてもいいんです。自分の武器は「勘」です。勘だけですべての難局を乗り越えてきた人間です。勘が言うには、めんどくさい事を考えるな!感じるままでいいんだ!って感じの事を訴えてます。
今日は、休日だから家族サービスしなけれれば。
SNSで流行ってる料理を食べなければ。
通販で買った道具を使わねば。
子どもを塾に入れて勉強しろといわなければ。
人生って何かに囚われてます。
逃げられないんです。
幸福追求を強制されている気がしてます。
適当でもいいはずなのに、もっと豊かな生活をしなければならないって強迫観念がある。
それって、なんだかツラいんです。楽しい時はいいけど、ふとした時にツラいんです。
強迫観念から解放された状態が「無」って考えたらいいんじゃないでしょうか。
美学を追求した利休とは違う世界にたどり着けます。
現代の日本は、かなり豊かです。普通に働ける状態であれば、そこそこの生活できます。生活保護もあります。メルカリとか駆使すれば、安くても暮らしの質を上げる方法あります。実は、幸福追求の強迫観念を外してしまえば、人生かなり楽になります。人生、知らない間に何か背負ってしまっているもんです。家族や仕事の責任、夢や希望とかトラウマとか常識もその類です。実は、どうでもいいもんだったりするんですよね。
無って解放された状態って事かもしれません。でも、解放されるって難しいです。無をどうデザインするのかが問われてる。修行とか哲学しなくてもたどり着ける無の境地ってあるのかな。
庭って無?
ここで庭の話になります。
自分が提唱するのが、野性充実の大切さです。
何かを強制してくる理性の支配を切って、ただ感性に身を任せるのが野性充実の世界ではないかと思ってます。
強迫観念捨てても、お腹減るんです。眠いんです。寂しいんです。人が生き物であるという事実だけは残ります。ただ生きることです。どうせならよく生きる。野性充実を目指せばいいと思うわけです。
無の世界ってそれぐらい軽い感じでいいんだと思います。空即是色が諸行無常してる気がします。
そうなると、自分の提唱する庭って無なのかもしれない。
庭に意味を持たせない。
何も強制しない。
でもダラダラしたり遊んだり好き勝手出来る。
何でもないから何でもできる。
無という可能性の場です。
ニュートラルに近いのかな。
ニワカケルの庭には、作法が無い。
感性赴くまま過ごせばいい。
焚火にあたりながら珈琲でも焙煎しながら語り合えばいい。
釣ってきた魚でも焼いたらいい。
ただ、そこにあるのは「今」だけです。
それが心地いいんです。
焚火に向かっている間は、無になれます。塊肉を吊るして焦げたところを削いでた食べるのも最高です。無の世界に肉がやってくるわけです。喜びです。人生ってこれだけでいい気がするんです。うん、これだけでいい。他はおまけです。現代は、狂い暴走する理性に引きずられた世界です。そんな世界の価値基準で評価されてるものって、さほど価値は無い。極論すぎる話かもしれないけど、そんぐらいの感覚が軽くていい。老化したから醒めてきただけかもしれないけど。勝ち負けとかどうでもいい。正解とか効率とか職場に置いとけばいい。立って半畳寝て一畳。人生そんなもんです。ただ今があるだけです。そんな自分を肯定してくれる場所があったら素敵じゃないですか?何者じゃなくてもいいんです。ただ居てくれるだけでいいんです。そんな場を生成する。そんな妄想。
たぶんこの先に利休越えの世界があると思うんです。
茶道ならぬ無道。道が無い世界。
誰か一緒に考えて下さい。
焚火と食べ物用意しておきます。