遊ぶ庭で面白い未来を目指すプロジェクト【ニワカケル】

庭師が語る⑦ 野性満足

いつの間にか、庭の話が7回目です。
何度も書いている事の書き直しみたいな連載ですが、何度も書くことが大事だったりします。
よく似たことばっかり書いてるんじゃぇね。って思ってもお付き合いをお願いします。

今回は、野性の話をしてみたいと思います。現代社会、何でも手に入ります。そんな現代人ですが、何かを失くしています。それは、野性です。利便性で豊かさを語るのは、はっきり言って古い。野性こそが、残された未回収のエピソードです。最後のフロンティアだと言っても過言ではない。

理性はもう満足した、これ以上はいらない

理性満足を追求する世界です。利便性追求とか、ほぼカンストしてます。人間中心主義的な人権思想とかも普及してきています。そんな現代は、幸福追求ってニンジンで釣られて無限労働の地獄を走るみたいな世界だったりします。
これ以上の理性満足の追求をしても、この先に、いい事なんてありません。

人間って、基本が猿です。動物園に行けばわかりますが、凶暴な存在です。猜疑心が強く、独占欲も強く、暴力で秩序を作る生物です。略奪が横行してます。そんな生き物の末裔が語る理性なんて、たかが知れてます。人の命は地球より重いといった人がいるみたいですが、どれだけ異常な発言なのかって話です。猿の惑星から学んだ方がいい。

満員電車の中で発狂しない理性強度はすごいと思います。地雷のように仕掛けられたコンプラとかハラスメントをかわし続ける能力とか凄いと思います。それでも日本を回していただける都会住みのエリートの方には感謝しかない。自分は、絶対無理です。たぶん、早々に踏むし炎上する。

十分、豊かな世界になったんだから、もっと人間らしく生きられるような世界が到来して欲しい。

野性とは

人間における野性とは色々な定義があるかと思いますが、本能とか感覚とか感情の領域だとさせてください。
そんだけです。

野性満足とは

本能とか感覚とか感情を満足させる生き方をしよう!ってことになりますが、でも、本能に100%従った生き方とかちょっとヤバいです。怒りに任せて暴力に訴えるとか、略奪が横行するとかちょっと問題大きすぎです。

理性を捨てて野性回帰の世界に移行するとかはやりすぎなので、理性と野性のいいとこどりの世界が最高だと思います。
バランスの問題だと思います。
いや、両方取りの一石二鳥を狙う。
太く思考してみる。

理性と野性を融合させる。
理性×野性
出てきたものは、「野性の文化」です。

野性満足できる庭

野性の文化とは何か!
色々ありますが顕在化したものだと、キャンプは野性の文化だと思います。
キャンプってほぼ縄文時代です。自分で家建てて、地面で煮炊きして、地面の上で寝る。縄文時代を洗練させるとキャンプになると思います。キャンプに行くと日常では満たされない何処かが満たされる。たぶん、それは野性だと思います。武道やスポーツも野性の文化の類だと思います。

野性満足を簡単に解説すると、野性をカッコよく満たすことです。
それは、野性を文化に昇華することです。
野性満足できる庭とは、野性の文化が展開する場所です。
それは、何でもできる何でもない場所です。

最後の行が意味不明な感じになってますが、ちょっと説明させてください。
文化って、定型化すると理屈っぽくなるんです。そりゃもう、自称評論家に好き放題されます。うんちく語ってるうちに理論の世界になってしまうので、庭を理性的に支配しようとするんです。その世界では、野性を排除するようになる。だから、庭を理屈で構成しない。何でもできる何でもない場所がいいわけです。

もう少し詳しく書くと、新しい文化は、ほっとくと○○道みたいなのが登場して、体系化し権威化し形骸化します。○○道じゃなくても、宗教かもしれないし、企業かもしれない。とにかく何らかの何かが出現します。登場した初期はいいんですが、すぐに理性が支配する面白くない世界になってしまいます。だから、庭ぐらいは起点として何でもない場所に留めておきたい。
庭を成立させるための理屈は不要です。重要なのは、そこで何を感じるのか。そこで何をしたいのか。そもそも自分とは何者なのか。そんな根源的な事に立ち返れる場所にしたいので、「こうであらねばならない」みたいな自分が何者であるのかを強制するような場所だと困る。
自分が何者かに成長するのはいいですが、庭とか自然を何者かに仕立て上げる行為は危険でしかない。

野性から始める

何でもない場所で、自分が何かを感じる事から始める。
まずは、野性の感性で世界を知る。
理性は不要です。
理性は、SNSでぶっ壊れているので捨てたほうがいい。
心地いいならそんでOK。
心地悪いならそれを楽しむ。
改善するもよし心地悪さを愛でるもよし。
ここがすべての起点です。

先人が築いた理屈に乗ると、起点と途切れてしまう。起点が無いから終点も見えない。人生に迷うわけです。迷うから資本主義の養分にされてしまうわけです。
自分の起点を持つ。それは、先人の哲学を学ぶ事ではなく、自分が何をどう感じる人間なのかを知る事です。根源は、野性です。人は、神の子じゃない。資本主義の養分でもない。
人とは、猿です。
ちょっと考えることが器用なだけの猿です。
オラウータンに満員電車に乗せてお役所勤めさせたら、すぐに精神病みます。
社会に対し不満があると思います。
その不満は、未来への希望です。
子どもに残したい未来を作れるチャンスがそこに来てます。

野性に基づいた起点を持つ。自分の手で喜びをつくる。喜びは文化につながっていく。

アンパンマンのマーチで習ったはずです。
「なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ」って。

野性の話なのになんかめっちゃ重くなりました。
子供でもわかる簡単な話なのに話がめっちゃ長い。
もっと語りたい事がある。
こんな記事を読んでる貴方も何か語りたいはずです。
だから、焚火でも囲んで語り合いましょう。
お待ちしております。

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